はじめまして‼︎

6月に入職し、リハビリ助手をしております市川と申します。

最近、「予約」の仕事を教わり眉間に皺を寄せながら頑張っています。

八王子生まれの八王子育ち、結婚しても八王子から抜け出せない根っからの八王子っ子です。

八王子は盆地なので夏はとても暑いです。先日も全国一位の暑さになっていましたね!

でも日本遺産の高尾山もあり、良いところも沢山あるので、コロナが落ち着いたら是非遊びに来てください!トロロそばが美味しいです。

趣味は映画鑑賞ですが、今はprime videoで面白そうな映画を見つけては、コーヒーを飲みながらゆっくりと鑑賞するのが私のストレス解消です。

まだまだ未熟ですが頑張りますので、どうぞよろしくお願いします🤗

“はじめまして‼︎” への4件の返信

  1. beatles_age・Soba より:

    こんにちは。

    先日、リハビリ予約で2度目の挨拶をさせて頂きました。

    覚えたての端末入力も、なかなか慣れた手つきで熟されておられましたね。

    私は、クリニックが開院して間もなくお世話になりだし、あっと云う間に3年と3ヶ月が過ぎてしまった常連患者です。

    最初はバネ指と腰痛。時間が流れると共に身体のあちこちにガタがきて、今に至っております。

    リハビリ室は大変そうで、大野さん以下リハ助手さん達が走り廻っていますね。大変そうです。
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    話は変わって、私も高尾山は子供の頃から電車やリフトを使わず徒歩で登っていました。

    初めて山頂から見た都会の景色は忘れられません。

    「あ~~、あんなに茶色い空気の中に住んでいるのか。」と、唖然としました。

    あの茶色い都会の景色が脳裏から離れません。

    未だに、目を瞑って思い出すとハッキリとあの景色が浮かんできます。

    しかし、今はあの景色も変わって、高層ビルがビッシリと並んでいるでしょうね。

    ここ30年近く行っていないので、コロナが落ち着いて体調も良くなったらケーブルカーで登って、

    再度、東京の街並みを見てみたいです。
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    それではまたリハビリ室に伺った際には、宜しくお願い致します。

  2. 松姫もなか より:

    カレンダーをめくったら、急に涼しくなりましたね。
    早起き、京王線での通勤、めまぐるしいリハビリ助手の仕事、環境の変化には、慣れましたか?

    季節の変わり目、少しずつ、いろいろ見えてきて、疲れやすいころかと思います。
    忙しい職場ですが、みんな優しい人ばかりなので、気づいたことがあったら、遠慮なくお話ししてみてくださいね。疲れを溜めない、貯めるのは、お金と、友だちです。

    八王子は、素敵な街ですね。
    最新号の『あいぼりー』の表紙と、トップ記事は、八王子の藍染でした。繊維の街です。

    八王子は、私を育ててくれた街です。

    高尾山は、遠足やデートで、飽きるほど行きました。近くにある、うかい鳥山は、かがり火が幻想的で、多摩森林科学園は、長い期間、沢山の種類の桜が楽しめる、キツいアップダウンが、リハビリにもってこいの、植物園です。

    滝山城址には、いらしたことがありますか?
    八王子市の北部、サマーランドの手前です。北条氏照が築城した、桜の名所で、滝山山頂にあった、國民宿舎からは、眼下に多摩川やあきる野の台地が見下ろせて、爽快でした。

    45年ほど前、私は、分倍河原から、滝山城址の近くの、1学年200人弱の小さな女子高校に通い、毎日、バレーボールに明け暮れていました。
    高校から始めたので、突き指、捻挫を繰り返しては、しょっちゅう、近所の奥島病院に行っていました。

    当時は,京王八王子駅から,戸吹行きのバスで、最低30分、中央高速の事故などで、国道16号線が渋滞すると、1時間くらい,満員のバスの中にいました。
    座っている人は、立っている人の鞄を、膝の上に乗せて持つという校風があり、重たい革の鞄を、5つくらい重ねて、毎週テストがある、英単語か、漢字の勉強をしていました。

    私は、府中四中時代の3年間は、闇の中にいるようだったので、先生から、都立高は合わないからと、私立3校提案されました。学費が1番安かったこと、附属中学校がないこと、憧れていた、小・中の先輩で、老舗のお豆腐屋さんのお嬢さんが、通っていたことから、猛勉強して、入学しました。
    面接の時、「掃除婦でもいいから、入れてください!」と、最後に叫んだのを、恥ずかしく思い出します。

    当時は,白襟のブラウス、碧色のボレロとジャンパースカート、黒いストッキング、そして、濃紺のベレー帽が制服でした。
    肩についたら、髪の毛は2つに結く、パーマや化粧は禁止、持ち物も厳しくて、寄り道で許されるのは、本屋さんくらいでした。

    個性的で、愛情豊かな先生が多く、先輩から代々伝わるあだ名を、踏襲していました。
    色黒の体育の男の先生は、コゲ。ダンスを教える女の先生は、大柄で太っていたので、ブブ。生物の男の先生は、何となく頼りなげで、ナマ。音楽の先生は、声楽家で、小柄でふっくらたから、タル。物理の男の先生は、ボンクラ…。後に、教頭になったタノクラ先生は、優しい紳士でしたが、少しのんびりしているところがあったので、残酷なあだ名がつきました。
    また、男の先生の多くが、卒業生の先輩と結婚していました。女子校あるあるですね。

    春には,体育祭があり、800m走の花形だった私は、後輩からお手紙をもらい、宝塚さながらの出待ちをされました、名前が私と同じ漢字であること、都立高校を落ちて、仕方なく入学したけど、私を見て、希望が持てたことなどを、綺麗な便箋に、綺麗な字で、書いてありました。私は、恥ずかしいのと、初体験でどうしていいか分からず、邪険にしました。後日、その後輩は、国立大学の医学部に入学したと聞きました。今、どうしているでしょうか。

    面白い授業では、週一回、作業という時間がありました。滝山の学園を自分たちで整えるということで、体操着に、揃いの水色のエプロンをつけて、芝生を大きなスパイクで刺したり、桜についた毛虫を割り箸で摘んで取ったり、球根を活かすために、チューリップやポピーの花を取ったりしました。
    作業をしながら、先生の悪口や、自分たちのこと、将来の夢など、普段あまり話さない子と話すことができて、楽しみでした。

    私は、國語と体育以外は、成績は低空飛行でした。先生のモノマネをしたり、2〜3㎞離れた創価大学を眺めていたり、居眠りをしたりしていました。3年間別々のシスターが担任になり、出来の悪い子ほど可愛いらしく、よく声をかけてもらいました。

    高校からは、八王子駅行きと、福生駅行きの2系統のバスがありました。
    部活がない時は、福生方面に帰る友だちとおしゃべりしたくて、お小遣いを気にしながら、福生回りで帰るのも、楽しみでした。

    なぜ、こんなに長く思い出話をしたのか、というと、福生方面の友人の1人に、『きょーた』という友人がいます。
    優秀で、ボーイッシュで、バカ話から将来の夢を語り合いつつ、勉強を教えてもらいました。
    その、きょーたの、今の名前が、市川恭子さんなのです!。
    きょーた、どうしてる? 元気かな? 

    コロナ禍で、同窓会が中止になってしまい、年賀状だけでつながり、何となく疎遠…。

    助手さんの市川恭子さんには、まだ、ご挨拶していませんが、新しい職場で、素敵な思い出を沢山作ることができるよう、お祈りしています。

    病気の時、生活に苦しんでいる時、年老いた時、思い出という引出しから、キラキラした宝石を取り出して、ニヤニヤしながら、時々泣くと、立ち直ります。

    だまされたと思って、まずは、一年、笑顔🙂で、通ってきてくださいね!。

    たよりにしています。

  3. 銀子・ビローバ。 より:

    今日も一日、お疲れ様でした。

    府中市役所の4階にある、観光担当課に、『行こうよ、八王子』という、パンフレットがありました。中に載っていた、妖艶な芸者さんや、はちバスサブレは、新鮮でした。

    私は、楽しい高校時代を、八王子で過ごしましたが、社会人10年目も、八王子でした。
    女の子は、クリスマスケーキ(24歳までにお嫁に行くこと)、大晦日(遅くとも31歳までに結婚すること)と言われた時代です。
    落ちこぼれの私が、地味な女子大を卒業して、滑り込み入社した保険会社で、どういうわけか、男性でもなかなかなれない、営業管理職になってしまい、八王子支社に赴任しました。

    仕事は、激務の二刀流。事務所は、保健所のすぐ近くで、9時から5時半までは、職員研修とその指導、6時から9時までは、聖蹟桜ヶ丘にある営業部での、営業支援で、車に乗って、多摩ニュータウンのお客様宅に、保険を売りに行くこともありました。

    自宅で資料作りをしたり、休日出勤は、当たり前でした。
    髪の毛が薄くなり、おできのようなニキビが、顔や背中に沢山できて、夜用ナプキンでも漏れてしまうほど、生理がきつくなりました。
    カラダが壊れる…!

    年収は、父親よりもはるかに多かったのですが、使う時間がないので、母に取られるだけでした。

    上司の教育部長は、私の前任地である東京本部の課長の同期で、気さくで、アツイ人でした。数少ない、幼い、女性管理職を育てようと、一生懸命、話をしてくれました。

    年収の半分くらい、営業経費に使わないと、営業部経営は、成り立たないこと、男性の多くが、頑張っても、なかなかなれない役職であること、若い女性営業職員の目標になること、などを、焼き肉屋で、お酒を飲みながら、熱く語ってくれました。
    でも、当時の私には、(お年頃でもあり)経営者になることに夢も、自信も持てず、部長のご馳走も、パワハラとしか受けとれませんでした。

    1月に、恐怖だった、支社営業管理職の沖縄・サザンリンクスゴルフ旅行を、何とかやり過ごし、3月末に退職しました。

    八王子には、しばらくご縁がありません。
    今でも、焼き肉屋とゴルフはトラウマです。

    その後、転職して、難病になり、命拾いをして、社会人入学を2回しましたが、転職をする度に、やり甲斐は増えても、収入は減るという現象になりました。

    持病が悪化して、働けなくなった今、仕事がある人が羨ましいと思います。

    世が世なら、エッセンシャルワーカーの1人として、ビニールシートの向こう側にいたのにな…。 病気になって悔しいな。
    そんなことを思いながら、毎週、リハビリに来ています。

    だって、リハビリ意識の低い大学病院から見放されて、動けなくなった身体をもてあまし、ずっと、ずっと、探していたんですよ!

    「何処かに、優秀な、優しいP T(腕のいい整形外科医も)はいねぇがー!?」(なまはげのセリフ)

    貴女の勤める職場には、こんな患者が、結構いることでしょう。
    反面教師も含めて、お給料以上の、ヒューマンウォッチングができるはずです。
    お得ですね。

    では、急に涼しくなりましたが、お身体に気をつけて、ゆっくり慣れてくださいね♪

  4. 松姫もなか より:

    お詫びして、訂正します。

    滝山城の築城は,1521年、大石定重でした。
    北条氏照は、大石氏の養子になり、滝山城に入り、城下町をつくったものの、武田信玄の攻撃に対して、「滝は落ちる」の意を忌み嫌い、天正年間(1573〜1591)に、元八王子に八王子城を築き、城下町も移したそうです。
    ごめんなさい🙏。

    滝山城址は、秋もきれいです。
    ナラ、クヌギ、クリなど、熊が喜びそうな木の実が沢山実ります。
    高尾山より、密にはならないのでは?

    母校は、中学校ができ、音楽科と美術科の女子短大から、共学の子ども学科と看護学科の四年制大学に、なったそうです。
    道路も、バイパスができ、学園行きのバスが増えて、通学が便利になったと聞きました。

    近くには、都内唯一の?、道の駅、たきやまがあるそうですが、テレビで何回か見ただけで、まだ、行ったことがありません。
    渡邊P T情報では、たきやま の前に、(彼の苦手な)馬刺し屋さんがあるそうです。馬刺し好きな私は、滝山城址に行く前に、馬刺しで酔ってしまいそうですね。

    滝山街道は、狭いので、よく渋滞します。
    太川陽介か、徳光和夫になったつもりで、西東京バスの路線バスを楽しんで頂くか、
    いざとなったら、歩く覚悟で、八王子を味わってください。
    帰り道は、バスで、秋川駅から五日市線、福生駅から青梅線で、立川廻りで帰るのも、楽しいかもしれません。

    八王子は、魅力的な街です。
    きっと、素敵な思い出を、くれることでしょう。

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